パンデミックが世界を震撼させてから、はや二年の歳月が経ち、事態が収束しない2022年の春、ある文化人学者が静かにアカデミズムを去る。その人物の名は田辺明生。大学院時代にお世話になった、東インドはオリッサ州を専門とする文化人類学者だ。
田辺氏の研究における業績については、浅学の私が紹介するまでもなく、その内容に通じている適任者によって語られていくことであろう。ここでは、私の個人的な思い出を、氏の退任講演の内容に則って描くことで謝辞の意を表したい。
田辺(敬称省略)は、退任講演において、自らの進路についてこう述べている。
“これまで一生懸命、学問してきたつもりだが、一方で、いつか霊的修行に専念したい、ともずっと思っていた。それらの分裂した思いが、この10年くらいだろうか、いつのまにか一致した。今ここで、自らの「求道としての学問」を行うこと、そして与えられた場所で「求道としての生」を送ることが自分の使命なのだと心から思えるようになった。そうして、こだわりがなくなったとき、いわば自然に次の道が開かれていった。私が選んだというより、大いなる存在の計らいが働いたように感じる”
田辺が向かう先は、27歳の時から師事している、インドのグルのアーシュラム(修行場)だという。田辺は当時、グルに出会い、2年間アーシュラムで滞在したことで、人生の根本を揺るがすような体験をした。筆舌に尽くし難い霊的な経験を授けてくれたグルに対して、恩返しをするために今度は、自らがインドへ参ずるというのだ。
田辺の門下生であった、著名なインド政治学者の中島岳志は、講演の質問者として登場し、田辺のそのような決断に対して、興味深いコメントを残した。
“自らの思い描いてきた霊的な部分とアカデミックの世界が一致してきたその時に、言葉を捨てるという先生のご決断は、もし田辺明生という一人の人物を評伝に書くのであればたいへん重要なターニングポイントになると思います。一度言葉を捨てた後に、湧き出てくるその言葉はいったいどのようなものになるのかを、我々は期待して待っています。”
田辺の打ち立てたヴァナキュラー・デモクラシーという概念は、ヒンドゥーナショナリズムを標榜するインドの右翼系団体RSSの実態を明らかにし、さらにインド独立期における活動家ラス・ビハリ・ボースと日本の右翼団体との関係などを紐解き、インドと日本に知られざる近代史上の関係を描き出した中島に大きな影響を与えた。中島の言葉は、そのような恩師が、学舎を去ることを惜しんでいる愛弟子の嘆きに聞こえた。
田辺は、そのようなアカデミズムから沸き起こるであろう、類まれなる知性の流出を惜しむ言葉に対して、静かにいう。
“願わくは、真理の風によって、万物が自ら響きあいますように”
と…..。
田辺のその言葉の背景には荘子のこのような言葉がある。
【天籟(天の風音)について。「音の出方はさまざまで同じでないが、それぞれ己のありかたにしたがって音を出す。すべて自らそのような音を奏でるのだ。」『荘子』「内篇」第二「斉物論」】
沈黙と瞑想によって、いったん自分の言葉を捨てた時、そこに沸き起こる世界は決して虚無ではない。そこには、万物が豊かに音を奏でる豊穣のサウンドスケープが広がっている。その森羅万象の表れ方の中に、真理を追求する精神をもって対峙する田辺明生は、まさに究極のフィールドワークを行おうとしているかのようである。
2017年、北インド古典音楽の世界で100年に一人の音楽家といわれるシヴクマール・シャルマ氏が京都において講演会を開いた。カシミールで演奏されていた百弦琴サントゥールを、北インド古典音楽の世界に持ち込み、緻密で美しい音色によって世界中の人々を魅了してきた希代の音楽家の言葉を聞きに、全国から100名弱の人々が集った。そこには、田辺夫妻の顔もあった。
http://www.yoga-zen.org/eyoga/manabu/yoga_23.pdf
恐れ多くもナビゲーター役を仰せつかった筆者が、シャルマ氏によって紡がれた言葉の中で、はっきりと覚えている下りがある。
“私は媒体でしかない。私の音楽は大いなる存在から降りてくる音を、媒体としてのシヴクマール・シャルマが演奏しているだけなのだ。言葉では説明できない、霊的な音、それが音楽である。言葉が消滅した時、音楽が始まるのだ(when words die, music starts)”
分断され、専門家のナラティヴに押し込められた「知」では、捉えることのできない真理を、曇りのない明晰な知性と霊性で捉えようとする田辺氏と自然が美しいカシミールの山間部から大都市ムンバイの喧騒の中に移り住み、そこで半世紀にわたり古典音楽の世界で霊的求道を続けてきたシャルマ氏。
謎に満ちたインド亜大陸をめぐって、いつの時代も霊的な自己探求の旅は絡まり合い、ほつれあいながら続いていく。
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