“1975年の前半、交通事故で負傷し、ベッドから起き上がれない時、私は「音に身を委ねる」ことの意味を知った。その時、友人のジュディー・ナイロンが17世紀に作曲されたハープの曲のレコードを持って見舞いに来た。ジュディーが帰る時、私はそのレコードをかけてほしいと頼んだ。彼女が去ると、音量が小さ過ぎ、加えてスピーカーの片方から音が出てないことに気づいた。外では激しく雨が降っていた。
レコードの音は、雨音にほとんどかき消されて聴こえなかった。ただ、一番大きな音の粒だけが、ときおり嵐の中から現れる音の雨粒のように耳を刺激した。起き上がって、音量をあげることができなかった私は、次の訪問者が来て、ステレオを調節してくれるまで、横たわりながらその部屋の響きに身を委ねるしかなかった。・・・ゆっくりと、私はまわりの音に吸い込まれていった。その時、これが本来音楽のあるべき姿だと悟った。環境、フィーリング、部屋全体の色合いがその場の音響空間に溶け込んでいた“ ( A Year with Swollen Appendices BRIAN ENO’S DIARY より)
これはブラインアン・イーノが語る、アンビエント・ミュージックの誕生の瞬間である。60年代、すでに欧米では電子音を駆使してリズムやメロディーの反復によって陶酔を誘うミニマル・ミュージックが活況を呈していた。それらの音楽は聴衆を、いわば強引に“サブリミナル”な領域に引きずりこむものだった。
一方、イーノの作品には、静謐で、ゆっくりとした時間の流れがある。そして、何よりも聴く人が身を委ねることから始まる物語がある。大きな音でも、小さな音でも、部屋に流しておくといつの間にか、本棚の隙間やベッドの間に音の粒が流れ込んでいき、部屋の音響空間を変化させていく。滲み、広がる、残響がたまゆらの音響曼荼羅を描く。そして、曲が終わり、またいつもの日常が戻ってくる。
“私は身を委ねる(surrender)という言葉をよく使う。それは、能動的にコントロールを放棄する行為だ。我々の生き方には、“コントロールすること”、“委ねる”ことの両側面がある。そして現代人はコントロールすることや、コントロールできる人を尊敬しがちだ。でも、実はコントロールすることが重要視されたのは、ごく最近のことなんだよ。人類は少なくとも2000年くらい前までは、委ねることで生きてきたんだ。たから、本当は我々は、身を委ねることが得意だし、好きなはずなんだよ。“ (Brian Eno on Exploring Creativity / Red Bull Music Academyより)
人類は宗教儀礼や愛や音楽に身を委ねることで、世界の一部であることを確認してきた。しかし、現代社会においては、そのような委ねる行為は“敗北”を意味するようになり、忌み嫌われるようになる。人々はあまりに好戦的で、コントロールしようと躍起になる。
イーノが目指すのは、現代テクノロジーによって作られた音によって、古代人類が味わってきた委ねる行為の復興なのか。環境=アンビエントの中に、溶け込んでいく時に太古のホモサピエンスの記憶が、ゆっくりと我々の脳裏をかすめる。
筆者が、好きなイーノの曲は“IKEBUKURO”である。これはロシアの芸術家、ゼルゲイ・シュットフに捧げられたアルバム、“シュットフ・アセンブリー“に入っている。あてもなく青年期を過ごしていた時、半年近くJR池袋駅の近くの焼鳥屋で働いていたことがある。毎日、夕方から深夜まで続く店には、近くの学生、柄の悪い輩、格闘家などでごった返していた。池袋は、刹那的なエロスとタナトスが交錯するナイトスポットだった。
ポラロイド写真の様に、池袋のイメージが脳裏に浮かんでは消えていく。炭まみれになりながら、鳥肉を焼く男たちが白い歯を剥き出して、常連に笑顔をむける。その手前には、人形のような無機質な顔をした、女子大生が焼きあげられた鳥をカウンターのサラリーマンにサーブする。怒涛のように行き交う酒の注文を、若い男達が異常な速さでさばいていく。肉が焼ける音、人々の笑いや怒鳴り声、囁く声、池袋のアンビエントは、剥き出しの享楽サウンドスケープだ。
イーノのIKEBUKUROはそんな、喧騒とはまるで無縁なほど深い湿地帯のイメージを喚起する。池袋は池の「ふくろう」という語呂合わせでもあるという。エジプトでは人の魂と交信する鳥といわれた「ふくろう」は、イーノのIKEBUKUROと相まって、深い黄泉への蛇行に我々をいざなう。記憶が交錯し、いつの間に記憶の中の「池袋」は“IKEBUKURO”にすり替わる。低湿地帯であったIKEBUKUROの闇の中で静かにふくろうが、黄泉の国の歌をさえずる。
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